2016年04月29日

「街道をゆく11 肥前の諸街道」司馬遼太郎

街道をゆく 11 肥前の諸街道 (朝日文庫) -
街道をゆく 11 肥前の諸街道 (朝日文庫) -

薄い文庫本なのに、なんと豊かな知が詰まっているんだろう。
この本を手に取ったきっかけは横瀬浦に行ったとき、
「街道をゆく」の一節が碑になっていたから。

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「肥前の諸街道」で司馬は今津の蒙古塚から始まり、
平戸、横瀬、福田、長崎を海岸線に沿うように訪ねている。
メーンは南蛮文化時代だ。
そもそもは平戸から始まる。
でもなぜ平戸だったのか。
それは明末の海賊王直がきっかけだった。
彼がポルトガル船に乗り日本を目指したが種子島に漂着して鉄砲が伝わる。
その後平戸にポルトガル船を引っ張っていったという。
宣教師と一体となっていたポルトガル商人たちは
切支丹嫌いの松浦候の態度に飽きて平戸を捨てる。
そして向かったのが横瀬だった。
たった二年ではあるが横瀬にキリスト教文化が花開いた。
そこには物分りのよい領主、大村純忠がいた。
横瀬浦の土地の半分を切支丹に提供。
たちまち横瀬には大きな会堂が建ち、重臣も常駐、
純忠自身、ドン・バルトロメオという洗礼名を受けた。
そのとき31歳。
純忠は知的好奇心が旺盛な上、人柄もよかったという。
横瀬の聖堂でのミサは午前四時。
純忠は午前三時に来て待っていた。
教会は純忠のために絨毯を引いたが、
座らないか、端を選んだ。
そばの庶民の信者が純忠のそばから離れようとすると、
そういう配慮を断ったそうだ。
神の前では地上の身分は意味を持たないことを知っていた。

横瀬の入江の中央には松露饅頭のような八ノ子島という小島が浮かび、
大きな十字架が建てられた。
十字架は今再建されていて、横瀬浦を訪れたとき、実際に見ることができた。

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二年後、純忠の政敵、義弟の後藤貴明を立てる勢力の夜襲を受け、
横瀬は焼き払われる。
その後、港は福田に開かれ、良港ではなかったため、長崎に移された。
長崎が教会領になって7年後、純忠が亡くなる。
次いで秀吉が切支丹禁制を布告する。

さて、そもそも大航海時代の先鞭をなぜポルトガルという小さな国がつけたのか、
それはヘンリー航海王がいたからだった。
彼はポルトガルに航海学、地理学の研究所を開き、
人種や国籍を問わず学者や船乗りを集め、航海と植民地の発見、
そして貿易を事業とした。
三本マストに四角と三角の帆をはためかせて入港してくる様子に
当時の日本人は度肝を抜かれたことだろう。
長崎港をポルトガル人たちはドン・バルトロメオ港と呼んでいた。
純忠の洗礼名だ。
イエズス会が長崎を領地にして最初にやったことはまずかった。
領内の神社・仏閣をことごとく焼き払ったのだから。
これでは秀吉も禁教令を出すだろう。
次にやってきたオランダはプロテスタントの市民社会の国だった。
彼らは十字軍的な方法を取らず、信仰は個人のものとして、
信仰と商売を切り離した。
そして出島での商売を許されることになった。

最後に語られる印象深い人物を記しておく。

ルイス・アルメイダ。
リスボンの貿易商だったが、日本に来て宣教師になる。
私財を投じ、豊後府内に育児院や総合病院を建て、
長崎にも同様の施設を作った。無論医療は無料。

長崎には慈恵院という医療施設があって、
ジェスティノという洗礼名を持つ日本人が統轄していた。
頭を丸め、妻も剃髪して共に運営していた。
慈恵院は病院、養老院、貧民救済院を経営。
社会奉仕という概念がなかった当時の日本でなんというヒューマンな活動をしていたのだろう!
秀吉も慈恵院には手出しをしなかったらしい。
長崎にはいろんな観光地があるが、
もっと慈恵院のことを誇っていいと思う。

戦国末期に打ち寄せた不思議な時代。
その時代の薫りをかがせてくれる素晴らしい一冊だ。
司馬さんありがとう。
そして横瀬浦に連れて行ってくれたMさん、ありがとう。
posted by 理乃 at 22:29| Comment(0) | ★図書室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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