
古代氏族の阿曇氏ゆかりの中心地にあります。
古くは志賀島の北側の勝馬浜に
表津宮・仲津宮・沖津宮の3宮から成っていましたが、
阿曇磯良(あずみのいそら:阿曇氏祖)によって、
表津宮が南に遷座して志賀海神社となったといいます。
仲津宮・沖津宮は現在は摂社。
阿曇磯良は神功皇后の新羅出征で
舵取りを務めたと伝えられています。
古代の九州北部は海人を司る阿曇氏が海上を支配していたそうです。
志賀島と海の中道を含めた一帯がが阿曇氏の本拠地でした。
現在の神主家も阿曇氏の後裔ということ。
阿曇氏は日本全国に進出し、長野県安曇野市、
石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、
愛知県渥美半島といった「しか」や「あずみ」がつく地名は
阿曇氏ゆかりの地と伝えられています。
さて、志賀島には万葉歌碑が10基もあります。
第1号万葉歌碑は志賀海神社の石段を登って、
参道の途中の左手にあります。

「ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも われは忘れじ
志賀の皇神」(巻7・1230)
〜難所の鐘崎過ぎてしまっても、
私は海の守神、志賀の神様のことを決して忘れない〜

訪れた日の朝、
厄払いとして蓬と茅を束ねたものが屋根などに揚げられていました。