

この遺跡が最初に発見されたのは江戸時代のこと。
発見当時の様子を記録した「柳園古器略考」(青柳種信)には、
甕棺の大きさは高さが90センチメートル以上、
直径60センチメートルほどもある巨大なもので、
その巨大な甕棺が二つ、口を合わせて埋められていた(1号甕棺)とあります。
中からは銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1個、璧1枚が出土したのですが、
これらの出土品ほとんど紛失!
銅鏡1面と銅剣1本が聖福寺に伝わっていて国の重要文化財に指定されています。
その後発掘されたのは昭和50年(1975)のこと。
新たに2号甕棺が発見されました。

伊都国歴史博物館新館3階に展示されている三雲南小路王墓から出土した巨大な2号甕棺
2号甕棺も高さ120センチメートル、
直径が90センチメートルの巨大な甕棺二つを口を合わせたものでした。
副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製の勾玉1個、ガラス製の勾玉などが出土。
銅鏡はすべて中国製。

この墓は約2000年前に造られたものと考えられています。
2基の甕棺の周りは周溝があり、甕棺は墳丘の中に埋葬されたと考えられています。
墳丘は東西32メートル×南北31メートルの正方形をしていたと推定され、
弥生時代の墓としては巨大で伊都国王のもので、
1号に王が、2号に王妃が埋葬されたと考えられます。
2000年も前に栄華を極めた伊都国とはどんなものだったか興味が湧いてきます。
*糸島市HP参照